第1位 司馬師
司馬懿の息子。『晋書』の「帝紀2」の記述では、 正始10(249)年の曹爽誅殺の功績によって「長平郷侯」に封じられた後は爵位の変動がない。しかし、司馬師が4万戸の食邑を得たのは正元2(255)年2月であるが、『三国志』の「魏書4(三少帝紀)」の注釈(「魏書」、1-311)の上表によれば、嘉平6(254)年の時点で「武陽侯」になっている。さらに、『晋書』の「列伝8(斉王攸伝)」には司馬師の死後、司馬攸が後を継いで「舞陽侯」に封じられたとある。
『晋書』の「帝紀1」によれば、司馬懿は舞陽侯から安平郡公に改封されているため、父の改封後に爵位を引き継いで舞陽侯になったものと思われる。
第3位 曹操
建安元(196)年に武平侯となった際の食邑数は不明。食邑数は「魏書」の本文中に見られず、建安12(207)年(1-64、「魏書」)、建安14(209)年(1-75、「魏武故事」)の注釈より確認できる。 建安14(209)年、曹操は2万戸を返上(1-75、「魏武故事」)しているが、建安17(212)年には10郡を領有する魏公となった(1-85)。
第5位 司馬昭
司馬懿の息子。結論から言えば、13,300戸を領邑したことは確実であるが、それ以外にも実数の分からない食邑があるため正確な食邑数を算出することはできない。最初の叙勲は景初2(238)年の新城鄉侯であるが食邑数は不明。その後の功績によって1,300戸を加増されているが、嘉平4年(252年)の「東興の戦い」に敗れた責任を取って爵位を失う。
正元元(255)年、「狄道の戦い」の戦功により新城鄉侯となり、同年に曹髦が新帝として即位すると高都侯に昇進して2,000戸を加増される。甘露元(256)年、高都公に昇進して3県を増封されるが、食邑数は不明である。甘露3(258)年、晋公となり、10,000戸を加増される。景元元(260)年、10郡を加増、咸熙元(264)年には晋王として20郡を領有するに至った。
第6位 鍾会
鍾繇陽の息子。東武亭侯として300戸を領邑した(4-290)後は昇進を辞退していた。景元3(262)年、蜀漢攻略を攻略し、同地に滞在中に県侯への昇進と10,000戸の加増を知らされるが、反逆の意志を察した将兵によって殺されている。爵位は「県侯」だけ記され、封土は不明である(4-302)。
第12位 曹植
建安16(211)年、曹操が返上した食邑のうち5,000戸を改めて与えられ、平原侯となる。その後領邑数は据え置きで臨淄侯に国替えとなり、建安22(217)年に5,000戸を加増されて1万戸を有する。これが領邑数のピークである(3-292)。
曹丕が皇帝となると安郷侯、鄄城侯を経て黄初3(222)年には鄄城王に昇格しているが、食邑は2,500戸に減少した(3-295)。黄初4(223)年、雍丘王に改封(3-306)、黄初6(225)年には500戸を加増される(3-312)。太和元(227)年、浚儀王に改封されたのち、太和2(228)年、雍丘王に復帰、太和3(229)年には東阿王となる(3-321)。太和6(232)年には3,500戸を有する陳王となり、そのまま没した(3-321)。
第17位 曹幹
曹操の息子。「魏書20(武文世王公伝)」に伝の立てられている曹操や曹丕の息子たちは、ほとんどの場合「景初、正元、景元中、累增邑、并前〇〇戶(「景初、正元、景元の間に食邑は逐次加増され、以前と合わせて〇〇戸を有した)」で締めくくられる。曹幹も例外ではないが、景元は5(264)年まで続いているのに対し、「魏書4(三少帝紀)」によれば、曹幹は景元2(261)年に死去している。よって、彼が景元3(262)年以降に加増を受けることはできないことになる。
第19位 曹緯
「魏書20(武文世王公伝)」には父の曹林が景初、正元、景元を経て4700戸を領有したとある(4-351)が、、「魏書4(三少帝紀)」によれば、曹林は景元元(256)年に死去し、曹緯が爵位と食邑を受け継いだため(4-322)、曹緯の時代に食邑は最大数になったものと思われる。
第43位 賈充
『晋書』の「列伝10」に伝がある。はじめて食邑を得た人物は「封(爵位),食邑〇〇戸」と表記されるが、賈充の場合は「增邑三百五十戸」からはじまる。すでに領有している食邑に350戸が加増されたということであるが、元の食邑が分からないため、正確な数値を出すことはできない。
賈充は賈逵の息子であり、賈逵の領有していた400戸を受け継いだ(3-140)ものと思われるが、断定はできないので計算に入れない。確実と言える食邑を見ると、魏の安陽郷侯として2,550戸、晋では魯郡公として10,550戸を領有している。
第52位 曹洪
黄初元(220)年、曹丕が皇帝に即位すると野王候となり、2100戸を領有する。後に食客の罪に連座して処罰され、爵位の降格と食邑数の削減が行われた。黄初7(226)年、曹叡が即位した際に楽城侯となり、あらためて1,000戸を領有した
第55位 張繍
「魏書1(武帝紀)」には列侯に封じられたこと(1-41)、 「魏書8(張繍伝)」には建安10(205)年に袁譚を滅ぼした際、2,000戸を領有した(2-123)ことが記される。この時点の2,000戸は「繡特多(張繍は特に食邑が多い)」と特記される厚遇であった。
第63位 裴秀
裴潜の息子。『三国志』では「裴潜伝(魏書23)」の末尾に名が見られるほか(4-49)、注釈によって事績が補われている(4-50)。『晋書』の「裴秀伝(列伝5)」によれば「咸熙初」に濟川侯となり1,400戸を領有しているが、咸熙年間は元(264)年と2(265)年しかないため、元年のことであると思われる。咸熙2(265)年、司馬炎が皇帝になると鉅鹿公に封じられ、3,000戸を領有した。
第67位 卞秉
卞皇后の弟。いわゆる外戚である。甄逸(甄皇后の弟)や郭表(郭皇后の従兄)、毛嘉(毛皇后の父)などもそうであるが、魏では外戚が極端に優遇されるということはなく、国政に関与することもなかった。これを陳寿は「適足以為百王之規典、垂憲範乎後葉矣」と高く評価する。 大意は「あらゆる君主に対する模範、後世に対する規範」。
第72位 杜預
杜畿の孫。『三国志』では「杜畿伝(魏書16)」の注釈(『杜氏新書』)に記述がある(3-193)。 罪人となった父の死後、祖父の爵位を継承し、改めて100戸を領有、呉攻略の功績により当陽侯に封じられ、8,000戸を与えられた(3-194) 。
『晋書』では「晋書34(列伝4)」に伝が立てられている。食邑については「增邑千一百五十戶」からはじまる。おそらくは上述の100戸に加増されたものと思われるが断定はできないため計算からは除外した。「杜預伝」によれば魏では上述の通り1,150戸以上を領有した。また、晋の当陽侯としては9,200戸を領有したとあり、『三国志』の8,000戸とは相違がある。
第74位 郭脩
「蜀書」では郭循と記される(1-83、5-419)。嘉平2(250)年、姜維による西平侵攻の際に蜀漢に連行された。嘉平5(253)年1月、費禕の催した宴会に出席し、費禕を刺殺した。その後の情報はないが、その場で殺されたものと思われる。同年8月、魏では詔勅を下して郭脩を称え、1,000戸の追贈と遺族への補償が行われたが、裴松之は郭脩の行いを評価せず、批判する姿勢を示している。
第75位 甄逸
甄皇后の父。曹叡にとっては母方の祖父にあたる。黄初7(226)年に曹叡が即位時した時にはすでに死去していたが、安城郷侯に封じられ、1,000戸が追贈された。これらの栄典は嫡孫の甄像が継承した。
第81位 荀勖
荀爽(荀彧の兄)の曾孫。景元4(263)年に司馬昭が晋王に封じられた際、安陽子として1,000戸を有した。泰始元(265)年、晋の建国に伴い濟北郡公に改封されたが、食邑数に関する記述はない。
第96位 羊祜
『晋書』の「列伝4」に伝がある。魏では甘露5(260)年に曹奐が即位した際、関中侯として100戸を与えられる。咸熙元(264)年、魏の爵位制度が五等爵に再編された際、鉅平子として600戸を領有する。泰始元(265)年、晋の建国により南城郡侯として3,000戸を与えられたが、辞退した。
第100位 田疇
建安12(207)年、曹操による柳城侵攻の先導役を務めた(2-317))。戦後は功績によって亭侯に封じられ、500戸を与えられるが辞退した(2-319)。その後、信賞必罰の原則に基づいて田疇に恩賞を与えるべきだとする議論が繰り返されたが、死ぬまで田疇は封爵を受けなかった(2-321)。
第103位 鄧忠
甘露元(256)年、父の鄧艾の食邑から500戸を分割されて亭侯となる(4-274)。ここでは亭侯としか記されない。景元4(263)年、鄧艾の蜀漢侵攻に随行した際には恵唐亭侯と表記される(4-275)。前述の亭侯と同じものとして解釈した。
第107位 荀顗
荀彧の息子。『三国志』では「魏書10」に情報がある(2-262)。『晋書』によると、正元2(255)年に勃発した「毌丘倹・文欽の乱」の鎮圧に功績があり、万歳亭侯に叙任されるとともに400戸を与えられた。咸熙元(264)年、臨淮侯に封じられるが食有数の変動は不明である。泰始元(265)年、晋の建国により臨淮侯に昇進、食邑数も1,800戸に加増された。
第117位 李典
「張遼伝(3-219)」、「楽進伝(3-221)」、「于禁伝(3-225)」などに「分(食邑数)、封一子列侯(食邑を分割し、息子の1人を列侯に封じた)」という表現がある。いずれも息子の名前は不明である。一方、これとは別に各人の死後、息子が爵位を引き継いだという描写もある。
これだけだと、列侯に封じられた息子が父の死後に改めて爵位を引き継いだのか、跡継ぎの息子と「一子」の息子が別人なのか分からなかったが、「李典伝」には「子禎嗣、增禎邑百戶。(略)賜典一子爵関内侯、邑百戶(息子の禎が後を継ぎ、100戸を加増された。息子の1人を関内侯に封じて100戸を与えた)とある(3-244)ため、跡継ぎの息子と「一子」の息子は別人であることが分かる。